ぐわぐわ団

ぐわぐわしたり、もんにょりしたり

「自分探しの旅」は「他人探しの旅」です

「自分探しの旅」という単語を目にするたびに、言葉にしにくいもんにょりを感じていたのですが、こないだ道を歩いていて突然「自分探しの旅は他人探しの旅」というフレーズが頭に浮かんできたのです。

「自分探しの旅」という単語がなぜもんにょりするのかというと、自分を探すも何も「自分、ここにいるやん」というはっきりとした事実があるからです。なぜ、今ここにいる自分を探しに行かねばならんのか。マリオがピーチ姫を助けに行くのはわかるのですが、マリオがマリオを探しに行く必要がないのと同じで、そもそも「自分探しの旅」という言葉そのものが矛盾しているのです。

もちろん、世の中は矛盾だらけだというのは十分承知しています。矛盾を許せないほど子どもではありません。むしろ、矛も盾も頑張れと励ますぐらいには出来た人間であると自負しています。トムとジェリーが仲良くケンカすることも許せますし、水戸黄門が本当は旅などしていなかったという事実も受け止めることができる心の広さを持ち合わせていると思っています。

でも、「自分探しの旅」のもんにょり感は納得できません。

「自分探しの旅」とは、身もフタもない言い方をしてしまうと「自分をちやほやしてくれる他人を探す旅」ではないかということなのです。自分をちやほやしてくれる他人を見つけることで自分の存在を肯定する作業こそが「自分探しの旅」ではないかということ。

自分は常に自分の中にあります。他人がこちらをちやほやしてこようが、逆にこき下ろしてこようが、そんなことは関係ありません。自分を探すというのであれば、自分に対して内向きに問いかけ続けることが「自分探しの旅」であり、実際に旅に出る必要はありません。自分の価値を見定めて、しっかりと地に足をつける。逆にふらふらと旅に出ても、見つかるのは他人ばかりで自分はどこにもいません。

自分の価値を見つけるのは自分です。他人ではありません。「自分探しの旅」という言葉にもんにょりしたのは、この事実を履き違えていると感じていたからではないのでしょうか。

と、適当な理由を思いついたので、KBS京都の新春シネマ指定席「猫侍 南の島に行く」をだらだらと観ながら、だらだらとそれらしい文章を書いてみました。騙されてはいけませんよ、あなたの読んでいるのはぐわぐわ団、全て与太話なのですから。合掌。

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