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公共の場でのコスプレについて

私のネタ帳に「公共の場でのコスプレについて」と書いてありました。えらい難しい問題を書こうとしたんですね、過去の私。私はコスプレはおろか、仮装もしたことがないぐらいなので、あんまり詳しくはわかりません。もちろん、火葬をされたこともありません。……こういうどうでもいいボケを挟んで文章のかさ上げをしてくるから困るんです、現在の私。

公共の場でコスプレをすることは、世間一般的にはばかられていると言えます。明確な禁止事項ではないかもしれませんが、イベントであれば構わないものの、普段の生活の場において、コスプレをしている人というのはなかなか目にすることはありません。警察官のコスプレをしている人はたまにいますが、たぶんあれは本職です。警察手帳をガバッと開けて、こういうものです!と言ってくるに違いありません。

ドラマでは警察手帳を水戸黄門の紋所のように出すシーンをよく見かけます。ただ、私も長いこと生きてますが、そんなこと実際にされたことはありません。あれはもしかして都市伝説ではないかと思ったりするのです。そもそも、本物の警察手帳か、偽物の警察手帳か、私に判別できる術はありません。常に警察手帳鑑定士の方が私の身の回りで待機してくれているのであれば別ですが、そのコストは誰が払うのでしょうか。

それはそうと、コスプレです。コスプレというのは現実社会とは離れた、非日常を楽しむことではないかと思うのです。自分の好きなキャラクターに扮して、いつもの自分とは違う自分を楽しむ、そういう意味で非日常と言えます。さてここで、柳田國男の「ハレとケ」の考え方を引用しましょう。

「ハレとケ」とは、柳田國男によって見出された、時間論をともなう日本人の伝統的な世界観のひとつ。 民俗学や文化人類学において「ハレとケ」という場合、ハレ(晴れ、霽れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)は普段の生活である「日常」を表している。

ハレとケ - Wikipedia

簡単に言ってしまうと、コスプレをするというのは祭りなんです。だから、普段の生活、日常の中でコスプレをしてしまうと、悪い意味で目立ってしまうのです。

例えば、岸和田の男性はだんじりを曳くのが大好きです。でも、あれは祭りの時だけなのです。いくらだんじりが好きだからといっても、毎日毎日だんじりを曳いていては、日常生活に支障をきたします。1年に一度、祭りの時にだんじりを曳くことで、日常生活の糧というか、エネルギーを蓄えているのです。「ケガレ」という概念が提唱されており、ケが枯れている状態、ケガレをハレの祭事を通じて回復させるという考え方ですね。

コスプレをすることで、日常生活のエネルギーを蓄えると考えるならば、日常生活とは切り離したイベントでこそ、コスプレを楽しむべき、という話になるわけです。だんじりを毎日曳くのに違和感を感じるのと、コスプレを公共の場ですることに違和感を感じるのは、同じことではないでしょうか。

それはそうと、人の名前でどうのこうの言うのもどうかと思うのですが、

従来の「聖=浄」への偏りに対して、「不浄」の観念とその「清め・祓い・贖い」の儀式の重要性を主張する波平のフォークモデルなどがある。

先ほどのWikipediaの一説です。日本の文化人類学者である波平恵美子氏の説が書かれているのですが、どうしてもあの人物が思い出されて仕方がないのです。「なみひらえみこ」です、名前の読み方は。