ぐわぐわ団

読んで損する楽しいブログ

手に余る文章

なんでもかんでも人のせいにすると楽ちんです。

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景気が悪いのは総理大臣のせいだし、簿記の試験が難しかったのは出題者のせいだし、知事を辞めざるを得なくなったのは週刊誌の記者のせいだし、とにかくいろいろと人のせいにしてしまうと、そこで話が終わってしまうのです。

10万カラットぐらいのダイヤモンドが盗まれたとしましょう。そんでもって、怪盗なんちゃらから犯行声明が送られてくるわけですよ。名探偵が「怪盗なんちゃらめ!絶対にダイヤモンドは取り返してみせる!」と決意表明して、推理小説が始まるわけです。なぜに猫の子一匹入れない警備体制をかいくぐり、怪盗はダイヤモンドを盗むことができたのか?といった話から、どんどん話がふくらんでいくのですが、これを「犯人の怪盗が悪い。」と、人のせいにしてしまったら、それで話が終わりです。推理小説にもならない。人のせい小説にしかならないんですね。これではつまらない。

少女漫画でも一緒です。ヒロインが好きになった男が別の女の子を好きになってしまったとしましょう。「男が好きになった別の女の子が悪い」と人のせいにしてしまったら、そこで少女漫画としては終わってしまいます。どうして私に振り向いてくれないの?と自問自答したり、男が好きな別の女の子との友情で苦悩したり、そういうややこしい展開が少女漫画には必要になってくるのです。ポテトチップをかじりながら「あの女が悪いんや。」とぶーたれてる姿を見せられても、そんな話を誰が読みたいのかと。

つまり、人のせいにするのはよくないというか、そうかと言って、全てを自分のせいにしてしまうのも精神的によろしくありません。景気が悪いのは自分のせいだし、簿記の試験が難しかったのは勉強をしなかった自分のせいだし、知事を辞めざるを得なくなったのは自分のせいだしと、すべてを自分のせいにしてしまっては病気になってしまいます。

じゃあ、どうすればよいのか。どうもしません。そういうもんだと思うしかないのです。原因がわかってなんとかなるならなんとかすればいいし、原因はわかっていてもなんともならんのならなんともならんのだし、原因がわからなければ原因をさぐればいいし、さぐらなくてもいいし、なんとかしたければすればいいし、したくなければしなければいいのです。

と、なんとなく心の持ちかた入門みたいな文章を書いて、ちっとも大したことを書いてないのに、それっぽいことを訴えているように見せちゃったりなんかしてみたいな文章を書こうかと思って、じゃんじゃかキーボードを叩いてはみたものの、書けば書くほど、何がなんだかさっぱりわけがわからない文章になってしまいました。わからんついでに、ふと思いついたけど、どうにも手に余る文章が頭にあるので書いておきましょう。

「前向きに生きよう!元気で頑張ろう!」なんて前向きな言葉は、裏を返すと「お亡くなりにおなり!」と同義です。ちょっと丁寧に言ってる「死ね!」と、そんなに変わるものでもありません。前向きに生きること、元気で頑張ることが価値のあることだという宗教が与り知らぬうちに広がっているのです。こわいことです。

ね、手に余るでしょう。