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かわいそうの話

かわいそうな話、ではなくて、かわいそうの話。

「かわいそう」という単語がこの世の中からなくなればいいのに、というご意見を目にして、とりあえずじっくりと考えてみようと思いまして、いつもの通り、大辞林で調べてみました。

かわいそう【可哀相・可哀想】(形動)[文]ナリ 〔「可哀相」「可哀想」は当て字〕弱い立場にあるものに対して同情を寄せ、その不幸な状況から救ってやりたいと思うさま。同情をさそうさま。「━な身の上」「━に、またしかられている」→気の毒(補説欄)

「弱い立場にあるものに対して」とありますが、かわいそうと感じる側は、強い立場なんですね。わかりやすく言うと上から目線なんです。そして、不幸な状況だとか、救ってやりたいとか、同情をさそうとか、全てが見る側の感覚なのです。かわいそうという感情は、絶対ではなく相対で、かつ当事者がどう考えていようが関係なくて、ただ上から見る側の感覚でしかないのです。

自分自身はとっても幸せなのに、はたから見たら不幸せに見えたりすることもありますが、それは価値観の違いだけであって、上下のあることではないはずなのです。しかしながら「かわいそう」という言葉は上から見下して「私は強い立場で言うけど、あなたは不幸だわ、救ってあげたいわ」と言われているのと同じなのです。自分に対して「かわいそう」なんて言われたら「やかましい!」とブチ切れることになりますし、誰かが誰かを「かわいそう」と言っているのを聞くのも、正直嫌な感じだと思います。

言葉狩りをするつもりはないですし、言葉は必要だからこそ生まれるものである以上、なくなればよいとも思いませんが、あんまり自分から進んで「かわいそう」なんて言うことはないかなぁと。じっくり考えてみたら余計にそう思います。

ただ、「ねえ、私、とってもかわいそうでしょ!」って自己アピールをどう考えるのか、という問題も出てくるのですが、考えれば考えるほどめちょんこややこしいので、この時だけは「はいはい、かわいそう、かわいそう。」と言ってもよいのではないかと思いますね。